しんぶん『赤旗』に連載中の「つぶての祈り」
高等学校を舞台にした学園小説である。
章ごとに語り手の視点が交代するという面白さがある。
一人の女子生徒、そして一人の女教師である。私は、この二人が主人公の小説と見ている。
現在は、第4章で教師の番
とても気に入っているのだが、昨日(5/30)少し気になるところがあった。
主人公は国語の教師であるが、職員室に、試験の採点結果に納得のいかない生徒がやってくる場面である。そのまま引用する。
出題は、『山月記』からである。詩人になりそこなって虎にになった主人公・李徴が、人間の心がすっかり消えてしまった方が「おれ」は「しあわせ」になれるだろう、と友人えんさん(「えん」は「遠」の旁のみ、「さん」は人偏に參)に語る場面がある。「人間の心がすっかり消えてしまったほうが『しあわせ』になれるというのか」というのが設問の内容だ。模範解答が「虎になりきってしまえば、残虐な行いをしても罪悪感にさいまなまれることはないから」となっている。生徒の答案用紙には、「人間の心をなくしてしまった方が、ウサギを食べても罪悪感を感じずしあわせ」となっていた。確かに模範解答と意味するところは同じだ。だからバツではなく三角にした。
「なんで三角?」
「まずね、『罪悪を感じず』って日本語としておかしいでしょう。『罪悪感を感じず』でしょ」
「なんでどう違うの?」
「罪悪っていうのは、犯した罪のこと。罪悪感っていうのは、悪いことをしたっていう気持ち」
「おんなじやん」
「おんなじじゃないでしょう」
「漢字一文字の違いやん。けちくさいなあ」
「罪悪感を感じる」
日常会話の中では使ってしまいそうだが、これは「頭痛が痛い」というのと同じ二重表現である。「違和感を感じる」と同じである。だから「罪悪感」という言葉を使うならば、模範解答にあるような「罪悪感にさいなまれる」、あるいは「罪悪感に脅かされる」「罪悪感に襲われる」などの表現を教えるべきである。
生徒の「罪悪を感じる」は日本語としておさまりは悪いが、「罪悪を犯しているように感じる」を言葉足らずに表現したものと解釈すれば、まだまともである。
しかし、実は問題はここにあるのではないのではないか。
模範解答にある「虎になりきってしまえば、残虐な行いをしても罪悪感にさいまなまれることはないから」という解答が妥当なのだろうか。またこのような解答を正解とするような設問が適切なのか。このことについて考えるには、『山月記』の原文に立ち返るしかない。幸いなことに青空文庫としてWeb で公開されている。
中島敦『山月記』
全文を丁寧に読めばわかることだが、この文章全体を通して「罪悪」という言葉は一度も出て来ない。また李徴の言葉は、次の通りである。
己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己は『しあわせ』になれるだろう。
この部分の『しあわせ』は、インターネット版では傍点である。いずれにしても何らかの印がついていることは、一般的な意味でのしあわせを意味するものではないはずだ。何か「かっこつきの」あるいは「いわゆる」というような意味も込めているのではないか。そしてこの文に続いて次の文が来る。
だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀 しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。
明らかに「しあわせになれる」という確信があるわけではない。一方で恐ろしく、哀しく、切なく思っているのである。このように複雑な心の葛藤のから生まれた言葉を、「『しあわせ』になれるというのか(これも不正確で、正確には「なれるだろう」と言ったのである)」という問いにすることしてよいものか。またそれを簡単に「罪悪感」という言葉で要約することを模範解答としてよいものか。
そもそも、優れた文学作品に無駄な文というのは一つもないはずである。その登場人物の心中を単純な問いにしたり要約したりすることはできないはずである。この『山月記』で書かれた李徴の気持ちを伝えるには、作者はこれだけの文の量と質を必要にしたのである。
この小説のような読み方が受験の国語の読み方であるかどうかは、私は専門外だからさっぱりわからない。しかしこんなふうに、文学作品から単純な単純な質問を構成し、それをまた短い単純な答えで正誤を決めるような文学教育が行われているとしたら、とてもつまらない。
ただ、主人公もこのような教育に嫌気がさしているのかもしれない。
明日が楽しみである。
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